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最高裁判所大法廷 昭和37年(ク)64号 決定

主文

本件抗告を棄却する。

抗告費用は抗告人の負担とする。

理由

抗告人の抗告理由(抗告理由の補充を含む。)第一点及び第二点について。

民法四六条が法人について一定の事項を登記すべきものとしているのは、権利主体たる法人の活動によつて生じる取引関係について、不測の損失や紛争を招来せしめないために、あらかじめ法人の組織に関する重要事項を一般に公示せしめることにしておく必要があるからである。従つて、その登記事項に変更を生じたときにも、一定の期間内にその登記をすることを義務づけ、これをしなければその変更を他人に対抗することができないものとしている。しかし、これらの登記を励行せしめるには、右の不利益をこうむらしめるだけではなお不十分であるとして、民法八四条一号は、登記の懈怠に対して、秩序罰たる過料の制裁を科することにしている。これは、国家の法人に対するいわゆる後見的民事監督の作用として、法人に関する私権関係の形成の安全化を助長し、もつて私法秩序の安定を期することを目的としているものということができる。

右のような民事上の秩序罰としての過料を科する作用は、国家のいわゆる後見的民事監督の作用であり、その実質においては、一種の行政処分としての性質を有するものであるから、必ずしも裁判所がこれを科することを憲法上の要件とするものではなく、行政庁がこれを科する(地方自治法一四九条三号、二五五条の二参照)ことにしても、なんら違憲とすべき理由はない。従つて、法律上、裁判所がこれを科することにしている場合でも、過料を科する作用は、もともと純然たる訴訟事件としての性質の認められる刑事制裁を科する作用とは異なるのであるから、憲法八二条、三二条の定めるところにより、公開の法廷における対審及び判決によつて行なわれなければならないものではない。

ただ、現行法は、過料を科する作用がこれを科せられるべき者の意思に反して財産上の不利益を課するものであることにかんがみ、公正中立の立場で、慎重にこれを決せしめるため、別段の規定のないかぎり、過料は非訟事件手続法の定めるところにより裁判所がこれを科することとし(非訟事件手続法二〇六条)、その手続についていえば、原則として、過料の裁判をする前に当事者(過料に処せられるべき者)の陳述を聴くべきものとし、当事者に告知・弁解・防御の機会を与えており(同二〇七条二項)、例外的に当事者の陳述を聴くことなく過料の裁判をする場合においても、当事者から異議の申立があれば、右の裁判はその効力を失い、その陳述を聴いたうえ改めて裁判をしなければならないことにしている(同二〇八条ノ二)。しかも、過料の裁判は、理由を付した決定でこれをすることとし(同二〇七条一項)、これに不服のある者は即時抗告をすることができ、この抗告は過料の裁判の執行停止の効力を有するものとする(同条三項)など、違法・不当に過料に処せられることがないよう十分配慮しているのであるから、非訟事件手続法による過料の裁判は、もとより法律の定める適正な手続による裁判ということができ、それが憲法三一条に違反するものでないことは明らかである。

論旨は、また、過料の決定に対する不服申立の手続において公開の対審が保障されていないことは憲法八二条、三二条に違反すると主張する。しかし、本件のような秩序罰としての過料を非訟事件手続法の定めるところにより裁判所が科することにしているのが違憲でないことは、さきに説示したとおりであり、同法の定める手続により過料を科せられた者の不服申立の手続について、これを同法の定める即時抗告の手続によらしめることにしているのは、これまた、きわめて当然であり、殊に、非訟事件の裁判については、非訟事件手続法の定めるところにより、公正な不服申立の手続が保障されていることにかんがみ、公開・対審の原則を認めなかつたからといつて、憲法八二条、三二条に違反するものとすべき理由はない(裁判所のした過料の裁判を別訴の提起により覆えすことができないとした原決定の判断は正当といわなければならない。)。

それゆえ、憲法八二条、三二条、三一条違背の主張は、採用しがたく、憲法二九条違反をいう点は、原決定の判断に憲法違反のあることを前提とするものであるから、右の説示によつて、その前提を欠くことになり、採用のかぎりでない。

同第三点について。

所論は、違憲をいうが、その実質は単なる法令違反の主張にすぎず、適法な特別抗告理由にあたらない。

よつて、本件抗告はこれを棄却し、抗告費用は抗告人の負担とすべきものとし、主文のとおり決定する。

この裁判は、裁判官田中二郎、同岩田誠の補足意見、裁判官入江俊郎の反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見によるものである。

裁判官田中二郎、同岩田誠の補足意見は、次のとおりである。

本件において、多数意見は、秩序罰としての過料を科する手続と、過料の決定に対する不服申立の手続とを一連の非訟事件とし、過料を科せられた者の不服申立の手続について、これを同法の定める即時抗告の手続によらしめることにしているのは、きわめて当然であり、「殊に、非訟事件の裁判については、非訟事件手続法の定めるところにより、公正な不服申立の手続が保障されていることにかんがみ、公開・対審の原則を認めなかつたからといつて、憲法八二条、三二条に違反するものとすべき理由はない。」と説示している。

私どもは、右の結論には、賛意を表するものであるが、その理由づけは、必ずしも十分な説得力を有するものとはいえない-右の理由は、非訟事件手続法の定める不服申立の手続が憲法三一条に違反しないことの理由にはなつても、論旨で問題にする憲法八二条、三二条に違反しないことの理由としては十分ではないと考えられる-ので、この点を補足するために、私どもの意見を述べることとする。

一 一般に訴訟事件と非訟事件との区別および限界は、必ずしも明瞭でなく、学説上にも異論のあるところである。従来、訴訟事件と非訟事件の区別を論ずるにあたつては、民事訴訟事件と非訟事件との区別および限界が問題にされるのが通例であるが、本件の過料事件の性質を考えるにあたつて問題になるのは、むしろ刑事訴訟事件と非訟事件との区別および限界の問題であるともいえよう。ところで、秩序罰としての過料は、一種の財産的な制裁であつて、その性質上、刑罰にちかいものであるという考え方を徹底すると、過料を科する手続そのものについても、公開・対審の原則を認めなければ、憲法八二条、三二条に違反するとの考え方の出てくる余地がないとはいえないであろう。しかし、本件のような過料を科する作用は、国家のいわゆる後見的民事監督の作用であり、司法機関たる裁判所がこれを科する場合でも、その実質においては、一種の行政処分としての性質を有するものであること、従つて、これを科する手続について、公開・対審の原則が適用されないことは、恐らく異論のないところといつてよいであろう。それは、過料を科する作用が刑罰を科する作用とは異なり、非訟事件性を有すると考えられるからにほかならない。若しこのような見地に立つて、過料を科する作用が非訟事件手続法の定める手続によつて行なわれることが、憲法上、是認されるとすれば、その過料の決定に対する不服申立についても、その決定の是正を求めるものである以上、非訟事件手続法の定める手続によるべきものとするのが自然であるといえよう。そこで問題は、過料の決定そのものは行政処分であり、これを科する手続は非訟事件手続であるとして、これに対する不服申立は、一転して、純然たる訴訟事件の性質を有するに至るものとみるべきかどうかにある。たしかに、地方自治法の定める過料について、これを科する作用は、行政処分であつても、これを科された者は、これを訴訟事件として、これに対する取消訴訟を提起することが許されている現行法の建前との対比からいえば、非訟事件手続法の定める手続によつて過料を科された者についても、これに対する不服は、訴訟事件に類する性質を有するものとして、通常の訴訟手続によらしめることは、立法上、不可能とはいいがたく、また、必ずしも不合理とはいえないであろう。しかし、元来、過料という制度は、刑罰とは異なり、従つて、これを科する手続について、非訟事件手続によらしめるべき十分の合理性を有するものと考えられるとともに、過料の決定に対する不服申立は、非訟事件手続によつてなされた決定の是正を求めるものであるから、純然たる訴訟事件とは異なるものと解すべきで、右の不服申立の手続を過料を科する手続と一体的に非訟事件手続法の定める一連の手続によらしめるだけの十分の合理的根拠があるように思われる。それは、裁判所において、過料を科する手続と、これに対する不服申立の手続とは相互に関連する一連の手続とみるべきであつて、過料を科する手続が非訟事件としてその手続になじむものである以上、これに対する不服申立が、突如として、純然たる訴訟事件に転化すると考えるべきものではなく、それ自体を切り離して考えると、その実質において、訴訟事件に類するものとみる余地があるとしても、これが直ちに純然たる訴訟事件に該当し、公開・対審の原則が適用されなければならないと解すべき理由は見出しがたい。過料を科された者の不服申立についてどういう手続によらしめるべきかは、むしろ、立法政策的に考慮されるべき問題であつて、非訟事件手続法が公開・対審の原則を採用していないからといつて、直ちに同法を違憲無効と断定することは妥当ではない。

同様の事例は、他の手続法、例えば刑事訴訟法の中にも見出すことができる。例えば刑事訴訟法三九条は、被告人又は被疑者の弁護人との接見・交通を権利として保障するとともに、一定の場合には、検察官等は、接見・交通の日時・場所および時間を指定することができるものとしている。これは、刑事訴訟法が検察官等に一種の行政処分権を認めたものであるが、この処分が違法に行なわれた場合には、被告人又は被疑者は自己の権利自由が侵害されたものといつてよいであろう。ところが、この違法の処分に対しては、同法四三〇条の定めるところにより、準抗告の手続が認められているにすぎず、行政事件訴訟に関する法令の規定の適用もない(四三〇条三項参照)。これは、刑事訴訟法の定めるところに従つて行なわれる処分によつて個人の権利・自由の侵害にわたるようなことがあつても、これに対する不服申立を切り離して、独自の訴訟事件の性質を具有するものとは見ないで、一連の手続で争わしめることが合理的であるからであつて、公開・対審の原則の適用されない準抗告に対する決定という方法を採用したからといつて、右の刑事訴訟法の規定が憲法八二条、三二条に違反するものとはいえないであろう。

過料に対する不服申立にしても、違法な接見禁止処分に対する不服申立にしても、その部分だけを切り離して、憲法が保障する公開・対審の原則が適用されるべき純粋の訴訟事件とみるべきではなく、それとはおのずからその性質を異にするものと考えるのが妥当であろう。

二 翻つて、憲法が裁判における公開・対審の原則を保障している理由を考えてみるに、この原則は、もともと、互いに対立・抗争する当事者間における訴訟事件について、フェア・プレーの精神に基づいて、公開の法廷において、十分に主張すべきことを主張させ、裁判所が公正中立の立場に立ち、これらの主張を聞いて、公正な裁判をすることができるようにし、もつて、個人の権利・自由の保障を全うしようとするものである。この原則は、秘密・暗黒裁判のもたらした弊害にかんがみ、これに対する厳正な批判の結果生み出された、いわば歴史の産物であつて、ここに近代裁判の一つの理想が表現されているともいうことができる。そして、この原則は、現在においても、決してその意味を失つているといえないこともたしかである。しかし、秘密・暗黒裁判が恐怖の的とされた時代における裁判と現代における裁判との間には、裁判の対象や裁判のもつ意義も著しく変り、裁判所が積極的に個人の生活関係に介入すべき範囲およびその態様もかなり変つてきている。実体法規のあり方も必ずしも旧のままではなく、手続法規も次第に整備されて、今日に至つている。このような事情のもとに、裁判の公開・対審の原則が常にあらゆる裁判に妥当し、何らの例外を許さない絶対の原則であるとまではいえない。ある種の家事審判事件(当裁判所昭和四〇年六月三〇日大法廷決定民集一九巻四号一〇八九頁、同一一一四頁参照。)のような非訟事件については、公開・対審の原則の例外が許されて然るべきであり、また、裁判所の積極的関与を広範に認めるに至り、非訟事件又はこれに類する事件の多くなつた近時の裁判においては、事件の性質上、その性質に応じた裁判の公正・妥当を保障する途を講ずる必要はあつても、事件そのものとして、公開・対審の原則になじまない事件も決してないわけではないのであつて、人民の権利・自由に関するすべての裁判について、裁判の公正を保障する見地から歴史的に生まれた公開・対審の原則を採用しないからといつて、直ちに違憲と断ずることはできないように思う。

要は、そうした例外を認めることが、公開・対審の原則を保障した憲法の趣旨に反しないだけの合理的根拠があるかどうか、また、それに代る裁判の公正を保障するための手続的保障が与えられているかどうかにかかつているとみるべきであろう。

三 今、本件についてみるに一方、過料を科する作用はもちろん、これに対する不服申立も純然たる訴訟事件とはいいがたいのみならず、他方、非訟事件手続法の定めは、裁判の公正を保障するための合理的な手続を整えているのであつて、このような事情のもとに、同法が過料を科する作用とこれに対する不服申立を一体的に規律し、そのいずれについても公開・対審の原則を採用しなかつたからといつて、直ちにこれを違憲無効と断定することはできないと思う。ただ、さきの大法廷事件について述べた意見中にも触れておいたように、訴訟事件と非訟事件との区別および限界は必ずしも明瞭でなく、非訟事件として法律上処理すべきものとしている事件の中にも、訴訟事件性の強い事項があり、これらの事項については、事件の種類・性質により、立法的に公開・対審の原則を導入する等の方法を講ずることによつて、将来、無用の論議を避けることにすることが望ましい。

裁判官入江俊郎の反対意見は、次のとおりである。

わたくしは、本件において、過料を科する手続と、過料の決定に対する不服申立の手続とを全体として不可分の一体をなす一連の非訟事件であるとする多数意見には反対であり、前者の手続と後者の手続中純然たる訴訟事件たる性質を有すると認むべき部分とは、区別して観念することが憲法の要請に適合するものと考える。

ところで、過料を科する手続は、一種の行政処分としての性質を有するものであり、法律上の争訟ではなく、純然たる訴訟事件ではないから、これについては、憲法三二条、八二条は適用なく、また、過料を科する手続を非訟事件として扱つている現行非訟事件手続法の規定は、その規定の内容に鑑み、憲法三一条に違反するものではないと考える。この点に関する限り、わたくしは多数意見に反対するものではない。

しかし、わたくしは、過料を科せられた者が、これを違法として、その決定に対し不服を申し立てる場合には、そのような争訟は、結局において法律上の争訟であり、最終的には純然たる訴訟事件として処理すべきものであると考える。従つて、憲法三二条、八二条は当然右不服申立の手続に適用せらるべきであり、これが終始非訟事件として、その救済方法について、非訟事件手続法による即時抗告(その決定に対しては特別抗告)の方法のみしか認めず、これにより、最終的に不可抗争の状態となるものとされている点において、右非訟事件手続法の規定は、憲法の前記法条に違反するものといわざるを得ない。そのような違憲の点を包蔵する現行非訟事件手続法の過料に関する規定は、結局、過料を科する手続に関する規定をも含めて、すべて違憲たるを免れず、本件特別抗告の申立は理由があり、わたくしは、この点において多数意見とは反対の立場に立つものである。

以下、わたくしの反対意見とその理由を表示する。

一 反対意見の要点

(一) まず、本件特別抗告申立の理由について考えてみるに、論旨は、原決定が、本件が非訟事件手続法で非訟事件として裁判をされているという形式上の一面を捉えて、本件には憲法三二条、八二条の適用なしとしたことを攻撃し、そもそも過料は、固有の刑罰ではないが強制的な財産罰であるから、一般の刑事訴訟法におけると同様に、これを科する場合の手続およびその決定に不服を申し立てる場合の手続も、公開の法廷で、資格ある弁護人の弁護を受け、証人の訊問、検証、鑑定を求める等適切な防御上の方法を与えることが必要で、これを認めない非訟事件手続法二〇七条は憲法三一条の適法手続の要請に適合せず、また憲法三二条、八二条に反する、というがごとくである。

論旨は、過料を科する段階と、科せられた者がこれを違法として抗争する段階とを同次元に見て、その双方につき憲法三二条、八二条の適用を主張するが、わたくしは、この二つの段階は性質を異にするものであると思う。そして、これを科する手続は、過料が性質上行政罰の一種である秩序罰であつて、これを科することは司法ではなく行政であり、未だ法律上の争訟ではないから、憲法の司法権の対象とはならず、従つて、憲法三二条、八二条はこれに適用なしというべきであつて、この点の違憲をいう論旨は理由がないとわたくしは考える。また、憲法三一条違反をいう点は、過料の制度に同条の適用はあるが、現行非訟事件手続法の規定の内容に照らし、過料を科する手続としては、これをもつて憲法三一条の適法手続の要請を充たすものというべく、憲法三二条、八二条と同様の手続によらなければ憲法三一条に違反するものとまでいい得ず、この点の違憲をいう論旨もまた理由がないことは、多数意見の説示のとおりわたくしも考える。

しかし、論旨のうち、過料を科せられた者が、これを違法として抗争する場合には、それは法律上の争訟であつて、現行憲法の下においては最終的にはこれを純然たる訴訟事件として取り扱うべきであり、これには憲法三二条、八二条が当然に適用せられるべきであつて、これが適用なしとした原決定は違憲である旨を主張する点(抗告理由第一点後段)は、わたくしは理由があると解すること(二)、(三)に述べるとおりである。

なお、原決定につき一言すれば、原決定は「憲法八二条にいう裁判とは民事および刑事の訴訟手続をいうのであつて、本来の意味の民事および刑事の訴訟手続以外の手続である非訟事件手続はこれに包含せられないと解すべきである。」というが、この説示は、一方において現行憲法上の司法権には行政事に関する裁判を包含することおよび裁判請求権が憲法上重要な基本的人権の一であり、これに対応して裁判公開の原則が認められていることに対する理解において缺けるところあり、他方において過料制度が現行非訟事件手続法上全体として一連の非訟事件とせられていることに対し、実質上の検討を缺き、頗る形式的、概念的な解釈論をしているといわざるを得ない。また、原決定は、「……要は過料の裁判が法律で定められた妥当な手続によつて行なわれることをもつて足るものであり、しかして非訟事件手続法所定の裁判手続はこの意味において缺けるところはない。」と説示するが、この説示は、非訟事件と訴訟事件との区別につき実質的な考察を加えることなく、過料の制度が非訟事件とされている現行実定法をそのまま前提として、憲法三一条の要件さえ充たせば、憲法の要請に応ずるものであり、憲法三二条、八二条の適用はこれを排除しても憲法上支障がないというもののごとくであつて、これまた問題の核心に触れない形式的、概念的な説示であると思う。要するに、原決定の説示は、抗告棄却の理由としては、極めて不充分である。

(二) 次に多数意見について考えてみる。

第一 多数意見は、民事上の秩序罰たる過料を科する作用は、国家のいわゆる後見的民事監督の作用であるが、それは実質上一種の行政処分であつて、刑事手続ではないから、憲法三二条、八二条の適用はない、ただ憲法三一条の適用はあるけれども、これを科する手続を定めた非訟事件手続法の規定の内容に照らし、人権保障の上において、特に缺けるところもなく、未だ憲法三一条違反というべきものではない、また過料の決定に対する不服申立の手続も、既に過料を科する非訟事件手続法の規定が違憲でない以上、これに対する不服申立の手続の同法の定める即時抗告の手続によらしめることは極めて当然であり、その不服申立の手続も、非訟事件手続法の規定によれば公正なものであるから、憲法三一条に違反せず、これに公開、対審の原則を認めなかつたからといつて、同八二条、三二条に違反するものとすべき理由はないというのである。言いかえれば、民法四六条、八四条一号の法意は、国家の法人に対する後見的民事監督の作用であり、法人に関する私権関係の形成の安全化を助け、もつて私法秩序の安定を期することを目的とするものである点に鑑み、民法の右の規定により法人につき一定事項を登記すべきものとし、法人の理事等がその登記をすることを怠つた場合にはこれに対し過料を科し、また、右過料の決定に対する不服申立につき裁判をすることは、すべて全体として一連の国家の後見的民事監督作用であるから、これを不可分の一体として非訟事件と観念すべきものであり、不服申立に対しては、非訟事件手続法による即時抗告(その決定に対しては特別抗告)を認めることをもつて足り、これに公開、対審の原則を認めないからといつて憲法三二条、八二条に違反するものではないというがごとくである。

しかし、わたくしは、民法四六条、八四条一号、非訟事件手続法二〇六条以下の規定の内容自体は、決して、それが不可分の全体としての一連の国家の後見的監督作用として私権関係の形成に関与することを定めたものと解すべきではなく、これを全体として実質上非訟事件であると観念することはできないと考える。多数意見が国家の法人に対する後見的民事監督作用であるというのは、民法の右法条の立法の趣旨、目的をいうものであつて、その限りにおいてはあえて反対するわけではないが、民法四六条は、法人につき一定事項を登記すべきものと定め、商業登記法一四条、非訟事件手続法一二四条と相まつて、法人の理事等にこれを義務づけ、民法八四条一号により、これに違反した理事等に過料の制裁を科する旨を定めており、また非訟事件手続法は、過料を科する手続を定めると共に過料の決定に対する不服申立につき即時抗告による救済の途を認めているのであつて、これらの規定を通覧すれば、この一連の国家の作用が、当事者だけでは円満な解決のできない私法関係に国家が介入して、諸般の事情を斟酌した上、合目的的に裁量権を行使して、新たに当事者間に合理的な法律関係を形成するような不可分の一体をなす国家作用たる実質的な意味の非訟事件であるとせねばならぬものとは到底認めがたい。もし、このような内容の法律関係がすべて国家の後見的監督作用により合理的な法律関係を新たに当事者間に形成するものであり、これを全体として実質上非訟事件であるというならば、保護助長行政に関する各種の法規に基づく法律関係の多くについても同様のことがいい得ることになろう。これは、法規の目的とするところとその法規が具体的に内容とするところとを区別しない考え方であつて、わたくしは賛成できない。のみならず、その手続の過程において、一般統治権に服する私人が国家から処罰され、これを違法としてこれに対し不服を申し立てた場合、これをも含めて終始非訟事件であると観念するに至つては、多数意見が、現行憲法下における訴訟事件と非訟事件との区別の標準をいずれに置いているのかにつき、いたく迷わざるを得ず、このような考え方は、純然たる訴訟事件を非訟事件と見て、非訟事件手続法によつて最終的に処理する点において、憲法違反たるを免れないと思うのである。

実際問題としては、非訟事件と訴訟事件との区別が困難な場合があり、時として中間領域のごときものがあるかもしれない。しかし、それは事柄の全体からみて、非訟事件とも訴訟事件ともいえないようなものであり、結局訴訟事件ではないが、その処理を裁判所の裁判に委すことが相当であると立法政策の上で判断して、これを非訟事件として扱う場合か、または、その事件が多分に実質上非訟事件的のものであつて、その手続の中に若干法律上の争訟のごとき部分があつても、結局これを非訟事件性の中に有機的不可分の一体として融合せしめて把握することが、事柄の性質に適合すると解せられる充分合理的な理由のある場合に、はじめて全体として非訟事件と観念することが許されるのであつて、法律により、安易に一括して非訟事件として処理してしまつてよいわけではなく、そのようなことをすればその法律は、現行憲法の司法権の意義を軽視し、司法権による人権保障の建て前に反するそしりを免れない。そして、本件過料のごときは、これを科する手続自体は訴訟事件ではないといい得るだけであり、これを科せられたことを違法として抗争する段階が、終始訴訟事件性を持たぬものであるとは到底考えられず、且つこれを科する段階と、これを違法として抗争する段階とが、有機的不可分の一体として把握され、全体を実質上非訟事件とせねばならない理由は到底見出だしがたい。また、非訟事件の裁判は形成的効力を有するといわれるが、その逆は必ずしも真ではなく、過料を科する裁判に形成的効力が認められるとしても、刑事裁判であつても刑の言渡しは一種の形成的裁判と解せられるのであつて、単にこの一事をもつて、過料の制度を全体として実質上非訟事件であるとすることは正当でない。

最高裁判所は、既に非訟事件の性質、非訟事件と訴訟事件との区別に関するいくつかの判例を示している(罹災都市借地借家臨時処理法一五条に関する昭和三三年三月五日大法廷判決、民集一二巻三号三八一頁、家事審判法九条一項乙類一号および三号の審判に関する昭和四〇年六月三〇日の大法廷の二つの決定、民集一九巻四号一〇八九頁一一一四頁)。そして、それらの判例の非訟事件性に関する詳細な説示は、本件過料の制度を、全体として一個の非訟事件と観念せねばならぬことを裏付けるものとは到底なしがたい。また、最高裁判所は強制調停の違憲性を示す判例を出しているが(昭和三五年七月六日大法廷決定、民集一四巻九号一六五七頁)、そこに示された最高裁判所の見解は、却つて本件過料を不服として抗争する段階の手続が、まさに純然たる訴訟事件であるとする見解の裏付けとして極めて有力であるとわたくしは考える。多数意見は、これらの従来の最高裁判所の見解を、いかに理解するのであろうか。これらとは異なつた別の見地からする非訟事件性の考え方に立脚するものであるとすれば、それにつき充分説得力ある説明がなければならぬのである。

また、多数意見は、過料を科する手続と、過料の決定に対する不服の申立の手続とを一括し、全体として非訟事件のごとく考え、そして、民事上の秩序罰としての過料を科する作用が一種の行政処分であると判示する場合に、地方自治法一四九条三号、二五五条の二を参考に示しているが、多数意見によると、地方自治法の過料を科する手続が行政処分として地方公共団体の長により科せられる場合、これに対する不服申立の段階も、終始性質上は純然たる訴訟事件ではないと解するのであろうか。この不服申立については現在行政事件訴訟法が適用せられ、終局的には訴訟事件として扱われているが、これは事柄の性質から来るものではなく、従つて憲法の要請から来るものではなく、元来非訟事件として扱つてよいものを、立法政策の上から、形式上訴訟事件として扱つたというのであろうか。行政事件訴訟法に特別の規定を設けて、地方自治法による過料に対する不服申立の途を地方自治法二五五条の二の手続による方法のみに限り、出訴の途を全然認めないこととしても、憲法三一条との関係は別として、同三二条、八二条違反の問題は生じないというのであろうか。或いは地方自治法を改正し、過料を科する手続を本件の過料のごとく非訟事件手続法による裁判所の裁判によらしめることとし、過料の決定に対する不服申立についても、本件と同様に、非訟事件手続法の即時抗告の手続によらしめて、これに公開の対審構造を認めないこととするのは、専ら立法政策に委された問題であつて、何ら憲法違反の問題を生じないというのであろうか。そのような考え方は到底わたくしの是認し得ないところである。

なお、憲法三一条違反か否かということと、憲法三二条、八二条違反か否かということとは、理論上別個の事柄であつて、憲法三一条の見地からすれば、適法手続の要請を充たしていると認められる場合であつても、憲法の他の条項に明文があるものを排除するのに、憲法三一条に違反しないというだけでは理由にならないことはいうまでもあるまい。多数意見のように、民法四六条、八四条一号、非訟事件手続法二〇六条以下の手続が全体として実質上非訟事件と認め得るというなら、憲法三二条、八二条は当然これに適用はないはずであり、憲法三一条に違反しないことがその理由となるわけはあるまい。

第二 本件においては、過料を科する手続と、過料の決定に対する不服申立の手続とは、終始不可分の一体をなす一連の非訟事件と解すべきではなく、別個に観念すべきものであり、そして前者および後者中再度の考案ないし再審査を求める趣旨の不服の申立の段階までは一種の行政作用であつて純然たる訴訟事件ではないから、これについては憲法三二条、八二条の問題は生ぜず、またこれにつき定めた非訟事件手続法の規定も、その内容に照らし、未だ憲法三一条違反というべき点はないといつてよいであろう。

ところで、このように、前者と後者とを終始不可分の一体をなすものと考えず、別個に観念するとすれば、後者の中純然たる訴訟事件の性質を有すると認むべき部分については、憲法三二条、八二条は当然これに適用があるというべきであつて、この点においてわたくしは根本的に多数意見と見解を異にする。蓋し、過料は一般統治権に服する者に対する財産上の制裁であり、過料を科すべき要件とその程度は、それぞれの法律(過料に関する実体法)に定められているが、これを科せられた者がその実体規定の解釈適用を争い、違法に自己の権利、利益を侵害されたと主張してあくまでその救済を求めた場合、それは終局的には明らかに法律上の争訟となり、純然たる訴訟事件となると解すべきだからである。ここで特に指摘したいことは、明治憲法と現行憲法との間に司法権の範囲に関し重要な差異の存することである。即ち、明治憲法では、行政上の争訟は、憲法上の司法権の対象ではなく、また過料の制度は性質上秩序罰として行政に属するものであるとされたから、明治憲法下においては、過料を科せられたことに対する不服を法律上の争訟として憲法の司法権に関する規定との関係上特に論ずるまでの必要はなく、非訟事件手続法にこれを規定し、これを全体として非訟事件として取扱つて何ら支障がなかつたのである。また、過料の制度が正確な意味における非訟事件の性質を有するものか否かを特に究明する必要もなかつたのである。明治憲法下においては、非訟事件手続法は、過料の制度を、単に、純然たる民事訴訟事件ではないとして取り上げたまでのことであつて、当初から過料を同法の附則の中に規定していたことも、そのような理由からではなかつたろうか。しかるに、現行憲法では、司法権の範囲が、民事、刑事のみに止まらずひろく行政事に及ぶこととなり、これらの事件に関する法律上の争訟はすべて実質上司法権の対象とされることになつたのであるから、単に立法によつて非訟事件として規定されているが故に非訟事件であるというような形式論は到底是認し得ず、もし本件のような、純然たる訴訟事件を立法によつて非訟事件として最終的にすべてを処理してしまうならば、そのような立法は明らかに憲法三二条、八二条違反である。

ただ、一種の行政処分としてなされた過料を科する手続が非訟事件として裁判所によつてなされた場合において、これを科せられた者が、これを違法と考えた場合、裁判所に対して再度の考案ないし再審査を求める趣旨において不服申立の途を認めることは立法政策上充分考えられることであり、それは非訟事件としてこれを処理することは差し支えない。現行の即時抗告の制度はその意味において理解すべきであり、その限度において理由のあることではあるが、再度の考案ないし再審査の決定に対してなお且つ不服ある者に対しては、最終的には純然たる訴訟事件として、憲法三二条、八二条の保障の下に、終局的の解決を与える途を用意しなければ違憲であると、わたくしは考える。この点に、明治憲法と現行憲法との間の本質的な差別が存するのである。

(三) なお、直接に多数意見の説示に対するものではないが、若干を附加したい。

もし、過料の決定に対する不服申立が、たとえ純然たる訴訟事件の性質を有するとしても、元来憲法八二条の裁判公開の原則は、訴訟事件の裁判の公正を保障するための規定であるから、裁判の公正が他の方法で確保されている場合(例えば、現行非訟事件手続法の即時抗告のように、本来公正、中立の立場にある裁判所が、合理的な法律の規定によつて厳正、公平にその手続を行なうような場合)にまで、絶対に例外を許さない趣旨ではなく、そのような場合には法律によつて例外を定め得るとの考え方をする者があるとすれば、わたくしは到底これに賛成し得ない。即ち、裁判所のする裁判であるから、その公正、公平に信頼が置けるから、憲法三一条の適法手続の要請に適合する限り憲法八二条の裁判公開の原則は必ずしも必要なく、同条は結局実定法で対審を必要とされているような裁判についての公開を、いわば大きく定めたものであるという、このような考え方は、憲法八二条が同三二条と照応するものとして、人権保障の上から重要な規定であり、法律上の争訟即ち性質上純然たる訴訟事件である限り、その最終的確定までの手続の段階においては、必ず対審の公開を必要とするものである点を看過したものであり、性質上純然たる訴訟事件と認むべき事案につき、万一にも法律がその裁判に公開による対審構造を採用せず、終局的にこれを確定して、不可抗争の状態に置くとすれば、そのような法律自体が憲法八二条に反するとわたくしは考える。

あるいは、事案の性質上からまたは当事者の利益のためというような、立法政策上の要請の名の下に、それが合理的と認められる限り法律で、純然たる訴訟事件についても公開の対審構造を採用する必要はなく、対審構造の要素の中で一般公開以外の諸手続のいくつかを適当にとり入れることをもつて足りるとする考え方があるかもしれない。しかし、それはあまりに私法的、あまりに訴訟法的な考え方で、それ以前の問題として、厳として憲法の司法権による人権保障の要請のあることを顧みない議論というべきではあるまいか。なるほど、法律関係の性質、内容如何によつては、常に必ず、終始公開の対審構造をもつて審理することは適当でなく、その過程においては、非訟事件的に一般公開によらない審理の方法を採用することも、立法政策上考慮に値いするであろう。しかし、それが結局において純然たる訴訟事件である限りは、その途中において、その処分ないし決定をした機関またはそれと同系統の機関に対し、再度の考案ないし再審査を求める趣旨の不服申立の途を非訟事件として認めることが立法政策上妥当と認められる場合があるとしても、当事者がなおこれに対しあくまで法律上の争訟として争う場合には、爾後の手続は当然憲法三二条、八二条の要請を充たすものでなければならないことは極めて明白であつて、最終的には一般公開の対審による裁判の途を用意するよう立法することが憲法上必要であり、かくして、はじめて憲法三二条、八二条の所期する司法権による人権保障が全うされる。前掲昭和四〇年六月三〇日の家事審判に関する最高裁判所大法廷決定の多数意見が、家事審判法九条一項乙類一号、三号の審判の対象たる処分の中には、既存の具体的な権利義務の存否についての争いを包含し得るものであり、それは純然たる訴訟事件の性質を有するものであるところ、そのような争いは、別に訴を提起することを妨げるものではなく、その段階において、憲法三二条、八二条の要請を充たす途が認められている以上、家庭裁判所が非訟事件として前記審判を行なうことおよびその審判に形成力の生ずることは、憲法三二条、八二条に違反するものではない旨を判示しているのも、ひつきよう右の趣旨においてである。なお、右家事審判に関する大法廷決定の多数意見に対しては、右審判の客体たる事案を検討すれば、それは、夫婦の同居義務の存在または夫婦関係の存続を前提とするものである以上、その前提たる事実の権利義務に関する争いと審判の対象たる事項の争いとは一体をなすものであつて、これを区別して論ずる余地のないものであるから、右審判の対象は、すべて家庭裁判所の後見的立場からの合目的的見地に立つてなされる形成処分により処理し得る非訟事件であり、憲法三二条、八二条違反の問題を生じないとする旨の意見が表示されている。わたくしはこの意見には同調するものではないが、仮りに右家事審判の対象たる処分については、全体としてこれを非訟事件と見る右の考え方が成立し得るとしても、本件過料の決定に対する不服申立は、全くこれと趣を異にするものであることを知らねばならない。要するに、一般論としてわたくしも、充分合理的な理由のある場合には、憲法の条項に或る程度幅のある解釈が必要な場合のあることを否定するわけではないが、基本的人権保障の最後のとりでともいうべき憲法三二条、八二条については、安易にこのような考え方を採るべきではなく、また本件の場合は、右のような例外を認めるに足る充分合理的な根拠があるとは、到底わたくしには考えられない。

また、本件過料の裁判が、公正な立場にある司法裁判所により、厳正、公平に法律の定めるところに従つてなされたものである以上、それはいわば一種の準司法作用というべく、これに対する不服の申立は、司法裁判所自体の自己統制作用によつて適正に処理すれば足り、これに憲法三二条、八二条は直接適用がないという考え方をする者があるとすれば、これも憲法の右条項の正当な解釈とはいい難い。蓋し、司法裁判所が本来の司法権に基づき純然たる訴訟事件につきした裁判に対しての不服申立(上訴)の手続については、それがいわゆるトライアルに属するものでない限りは、右のような考え方も或る程度是認し得ないこともないが、それとこれとは全く場合を異にしている。即ち、本件は、本来一種の行政作用たる過料を科する手続が司法裁判所でなされるのであつて、それだからといつて、それが本来の司法権の作用またはこれに準ずる作用となるものではなく、また、その手続が憲法三一条の適法手続の要請に適合しているからといつて、これに対しあくまで不服として争う以上、ここにはじめて純然たる訴訟事件が成立するのであつて、これには当然憲法三二条、八二条が適用せらるべきものといわなければならないからである。そもそも裁判所は元来その構成、手続が厳正、公平なものであるのだから、その判断は信頼してよく、憲法の適用にも例外があつてよいというような考え方がいやしくもあるとすれば、それはむしろ、司法権の権威のために有難迷惑なことというべきである。

更に、過料は比較的軽微な処罰であるから、これを科する手続が憲法三一条に適合する限り、これに対する不服申立については、憲法八二条の公開の原則を排除しても同条違反ではないと考える者があるとすれば、これもまた正当でない。即ち、過料は、刑事罰に比し軽微であるとしても、一般統治権に服する者が法的秩序に違反した場合に科する制裁であり、これを科せられることは刑事罰とは異なつた意味合いであるにせよ、当事者にとつては大きな不利益且つ不名誉な事柄であり、また過料の額も今日決して軽微なものばかりではない(現行法制下において三〇万円の過料の例も少なくない。)。それ故、過料が軽微な処罰であるという点も問題であるが、仮りに軽微なものであるとしても、その一事をもつて、純然たる訴訟事件の性質を有するに至つた段階における過料の決定に対する不服申立の手続に、憲法八二条の公開の原則を適用しなくてもよいということにはならないと思う。

ここで注意すべきことは、裁判所のなす各種決定手続には、対審の公開手続を経ないで具体的事件に既存の法令を解釈、適用する場合があり、非訟事件手続法、民事訴訟法、刑事訴訟法等にその事例がないわけではない。例えば、刑事については、被告人または被疑者を勾留する処分などである。しかし、そのような措置は、それが非訟事件処理の中間における処置である場合には、非訟事件性を有するものとして、本来の非訟事件と不可分の有機的一体の関係にあると解せられないことはなく、また民事訴訟法、刑事訴訟法上のそのような措置は、訴訟当事者にとつては当該民事訴訟、刑事訴訟の中間段階における措置であつて、結局、当該訴訟の本案の処理については、純然たる訴訟事件として、これに憲法三二条、八二条が適用せられるのであるから、右のような中間の措置についてまで、一々憲法八二条の公開の原則が適用されないからといつて、同条に反するものとは考えられず、少なくとも本件過料に対する不服申立の最終的処理を憲法上如何に理解すべきかの問題とは、趣を異にするものと思う。

また、一定の公の身分を有する者が、その服務関係において懲戒を受ける場合があり(例えば裁判官分限法)、法廷等の秩序維持に関する法律により、同法違反者が特別の制裁を受ける場合があり、これらについての不服申立には、憲法三二条、八二条は適用ないものとされている。しかし、これは、継続的に、または一時的に、特別の権力関係に服する者が、その特別の権力関係内部の規律維持のために受ける制裁であり、一般統治権に服する私人に対する関係におけるものではない点において、本件とは事案を異にするものと考える。

以上はわたくしの反対意見の要点であるが、なお、これを補足する意味において、以下に憲法三二条、八二条の法意、秩序罰としての過料の性質および過料に関する非訟事件手続法の規定の内容に関し、所見を述べておきたい。

二 憲法三二条および八二条の法意について。

(一) 憲法三二条は、何人にも裁判所の裁判を受ける権利を保障しており、それは憲法七六条により裁判所に属するとせられる実質的意義における司法権の発動を国家に対して要求することのできる基本的人権である。即ち、現行憲法にいう司法権は、明治憲法におけると異なり、民事、刑事、行政事を含めた「一切の法律上の争訟」(裁判所法三条)を対象とするものとせられ、ここに司法権の対象とせられる「法律上の争訟」とは、具体的事件に関連して法令の解釈、適用につき当事者間に利害の衝突があつて、その結果違法に自己の権利、利益を侵害されたとする者が、これを不服としてその救済を求める場合を意味するものであり、その性質は純然たる訴訟事件というべく、また、憲法三七条一項は、特に刑事については、国家が刑事罰を科する作用即ち刑罰法令の適用を確定する作用を、純然たる訴訟事件としており、そのような法律上の争訟については、何人も憲法三二条により裁判所の裁判を受ける権利を奪われない。また、ここに「裁判」とは、裁判所が法律により行なう手続というような広義の意味の裁判ではなく、純然たる訴訟事件につき、法令の解釈、適用に関し争いある当事者に対し、裁判所が第三者の立場に立つて、法の適用の確定につき法律上の判定を与える一連の手続をいい、法律上の争訟については、当事者の要求があれば、裁判所は裁判の手続によりこれに最終的の判定をなすべき職務と権限とを有するものとせられている。

更に、憲法八二条は、裁判の対審、判決公開の原則を規定し、同三二条により保障された裁判請求権の客体たる法律上の争訟につき、その判定が最終的に確定されるまでには、右八二条一項により、同二項の例外の場合を除き、当事者がその権利を適法に放棄しない限り(裁判公開の原則は、当事者の人権の保障と裁判に対する国民の信頼確保の見地よりする、裁判に関する憲法上の基本的重要事項であるから、当事者といえども、その権利の放棄は単なる私権の放棄のように当事者の勝手になし得るものではなく、おのずからそこに一定の制約があり、その制約内の放棄であつてはじめて適法な放棄と観念すべきものであろう。)、公開の法廷でその対審を行なわなければならず、判決は常に必ず公開の法廷で行なうことが要請されている。この裁判公開の原則は、司法に関する諸国憲法の伝統的な重要原則であつて、それは、およそ法律上の争訟は、その裁判がガラス張りの中で公明正大に行なわれることが、当事者の人権を保障する所以であり、同時に裁判の公正を保ち、裁判に対する国民の信頼をつなぐ所以であると考えられたからで、この原則は明治憲法五九条にも明文が置かれていたことは周知のとおりである。そして、裁判の公開には「当事者公開」と「一般公開」とがあるが、明治憲法も現行憲法も、共にその公開は「一般公開」を意味するものであることは明らかであり、殊に現行憲法は、民事、刑事、行政事の一切の法律上の争訟を司法権の対象とするに至つたから、法律上の争訟たる純然たる訴訟事件においては、裁判公開の原則は明治憲法に比し、人権保障の上に更に一層重要性を増したのである。

なお、法令の解釈、適用に関する争いであつて、具体的な権利、利益の違法な侵害の救済を求める場合であつても、一応これをその処分ないし決定をした機関またはこれと同系統の機関に対する再度の考案ないし再審査請求の手続として認める場合がある。例えば、行政不服審査法による手続、地方自治法二五五条の二、二五五条の三の手続のごときである。これは明らかに行政であつて司法ではなく、憲法三二条、八二条の問題でない。たとえ裁判所がそのような手続を行なう場合(非訟事件手続法二〇七条三項の即時抗告のごときはそれである。)でも、同様である。しかし、右再度の考案ないし再審査の決定に対し、当事者があくまでこれを違法として争う場合は、爾後の手続は明らかに純然たる訴訟事件として観念せらるべく、司法権の作用の対象となり、当然憲法三二条、八二条が適用されることになるのであつて、このような不服申立に対し、最終的に行政上の手続によつて終止符をうつことは憲法上許されない。憲法七六条二項に「行政機関は、終審として裁判を行ふことができない。」とあるのも、その趣旨を示しているのである。

附言すれば、裁判の一般公開の原則についての諸国憲法の規定は必ずしも軌を一にせず、その例外を認める範囲も国により異なり、国によつては憲法中に明文を置かないものもある。しかし、この原則はフランス革命以来、裁判上の重要な原則として諸国に受けつがれ、憲法に特に明文を置かないとしても、それは民主政治の下では、裁判の一般公開は当然の事柄と考えられているもののごとくである。わが国においては、明治憲法も現行憲法も共に明文を置き、殊に現行憲法は、前述のとおり司法権の範囲を拡張し、司法に関する基本的人権を一層つよく保障することになつた点を顧みるとき、裁判の一般公開の原則は、古くして常に新しい憲法上の重要な原則というべく、いわば古典的意義を有するこの原則の、今日的意義をいかに現実の司法のうちに生かしてゆくかが問題となるのである。

(二) しかし、実質上の司法権の作用に属さない事柄でも、法律が特に裁判所の権限に属せしめることがある(裁判所法三条一項後段)。その顕著な事例は非訟事件であるが、それがその名の示すごとく実質上法律上の争訟でないものである限り、たとえそれを法律によつて裁判所の権限に属せしめたからといつて、それは実質的には司法ではなく、行政の一種というべきものであつて、これには憲法三二条、八二条は適用がない。裁判所が法律により行なうそれらの手続も、広義においては裁判と称せられることは、例えば非訟事件手続法一六条以下等にも例があるが、それは憲法三二条のいう狭義の裁判ではないのである。同時にまた、法律により非訟事件として取り扱われているからといつて、もしそれが実質的には前記の意味における法律上の争訟、即ち純然たる訴訟事件であり、またはそのような部分を包含するものであるならば、これについては、憲法三二条により何人もその争訟につき裁判所において裁判を受ける権利を奪われないと同時に、その裁判には、同八二条により、一般公開の原則が要請せられるのであつて、純然たる訴訟事件を非訟事件として一切処理してしまうような法律は、違憲たるを免れない。それらのことは、最高裁判所が強制調停を違憲とした昭和三五年七月六日の大法廷決定(民集一四巻九号一六五七頁)、家事審判法九条一項乙類一号および三号の審判を合憲とした昭和四〇年六月三〇日大法廷の二つの決定(民集一九巻四号一〇八九頁、一一一四頁)の多数意見が明らかに説示するところであつて、これらの大法廷決定には多くの補足意見、反対意見、意見が付せられたが、それら各種の意見と相まつて、憲法三二条、八二条の法意につき、最高裁判所はかなり明確にその判断を既に示しているといえるのである。

(三) 更に、たとえ法令の解釈、適用に関する争いであつても、これによつて具体的な権利、利益の違法な侵害が問題となつていない事案、言いかえれば、特定の者の具体的な法律関係につき紛争の存する場合に当らない事案は、憲法上の実質的司法権の対象たる法律上の争訟でないから裁判所の当然の権限には属さないし(警察予備隊違憲訴訟に関する昭和二七年一〇月八日大法廷判決、民集六巻九号七八三頁参照)、また、具体的な権利、利益の発生、変更、消滅を結果的に伴う事案であつても、例えば罹災都市借地借家臨時処理法一五条の裁判(昭和三三年三月五日大法廷判決、民集一二巻三号三八一頁)のごとく、または前掲家事審判法九条一項乙類一号、三号の審判(前掲民集一九巻四号)のごとく、当事者間に現在の法律関係の下における権利、利益の享有状態につき意見の相異を来たし争いを生じて、当事者だけでは円満な協議、解決が調わない場合、国家が後見的見地から仲介者の立場に立つて、当事者間の一切の事情を考慮、斟酌した上、合目的的に裁量権を行使して、社会生活上の法的公平の実現に関与し、新たに当事者間に合理的な法律関係を形成するようなものは、具体的事件に関し既存の法令の解釈、適用を争い、違法になされた権利、利益の侵害の救済を求めるというようなものではなく、当事者間に争いとなつている既存の実体法上の権利義務の存否、態様を確定することを目的とするものではなく、従つて法律上の争訟ではないから、純然たる訴訟事件たる性質を缺く点において、まさに正確な意味での非訟事件というべきものであつて、これまた憲法の実質的司法権の対象となるものではなく、憲法三二条、八二条はこれには適用されない。その他、純然たる訴訟事件ではない事案につき、立法政策の上で、これを裁判所の権限に属せしめるものがあつても、それに憲法三二条、八二条が当然に適用されるものでないこともいうまでもあるまい。昭和四一年法律第九三号借地法等の一部を改正する法律において新設された借地法八条ノ二の建物に関する主要な借地条件の変更等の裁判、同九条ノ二の土地の賃借権の無断譲渡または転貸に関する賃貸人の承諾に代わる許可の裁判、同九条ノ三の競売または公売によつて第三者が賃借地上の建物を取得した場合の賃貸人の承諾に代わる許可の裁判(新設の同一四条ノ三参照)等も同様の趣旨で非訟事件として立法されたようであり、その立法の趣旨が是認できるものならば、憲法三二条、八二条は当然にこれに適用されるものではないと言えるであろう。

三 秩序罰としての過料について。

(一) 現行法制の下における過料には、秩序罰、執行罰、懲戒罰の三種があるが、後二者についてはしばらく別とし、本件で問題となつている秩序罰たる過料につき考えてみる。

秩序罰は行政罰の一種であり、行政罰は大別して行政刑罰と秩序罰(現行法上秩序罰には過料の名称が付せられている。)とに分かつことができる。行政罰とは、一般統治権に服する私人が、国または公共団体との関係において遵守することを必要とせられる行政上の法的義務に違反した場合、国または公共団体が、右違反者に対して科する処罰である。そして、行政罰が、刑法と同一の刑名の処罰である場合は、その処罰の実質は行政罰の一種たる行政刑罰であり、刑事罰ではないけれども、事件としては刑事事件として扱われ、手続は刑事訴訟法によることとされ、刑法総則も原則として適用され、憲法上刑事裁判に関する規定が適用されることとなる。しかし、行政刑罰は実質は刑事罰ではないから、強度の悪性を有する反社会的、反倫理的非行(純然たる刑事犯)に対する刑罰(いわゆる刑事刑罰)とは性質を異にしていると解せられ、刑法総則の適用にも事柄の性質から来る若干の例外が認められる。尤も、刑法の刑名による処罰が科せられる場合、それが果たして実質上においても刑事罰であるのか、または行政罰たる行政刑罰であるのかは、これを定めた実定法の法意に照らして判断するほかはないであろう。

ところで、現行法制によれば、秩序罰たる過料は、刑法の刑名に該当しない行政罰の一種たる財産上の処罰であつて、刑事罰ではないから、刑事訴訟法も刑法総則も適用なく、憲法上も刑事裁判に関する規定は適用がない。また、その種類は、私法上(民事上)の秩序を維持するためのもの、訴訟手続法上の秩序を維持するためのもの、行政法上の秩序を維持するためのもの等があり、右法的秩序を維持、確保することを目的として、それぞれの法律で、その秩序を破つた者に対しこれを科するものとせられ、これを科する場合の要件、程度が定められ(実体規定)、これを科する手続およびその決定に対する不服申立の手続は、当該法律に特別の規定のない限りは、非訟事件手続法二〇六条ないし二〇八条ノ二の規定(手続規定)が適用されることとなつており、当該法律に特別の規定が置かれている場合も、大体右非訟事件手続法と大同小異の規定となつているのであるが、右非訟事件手続法二〇六条以下の手続規定が合憲であるか否かは、今日まで少数の論文を除き、つきつめて殆んど論じられたことがなく、現行憲法下においてその合憲、違憲の問題が最高裁判所において取り上げられたのは、本件が最初である。

(二) 思うに、強度の悪性を有する反社会的、反倫理的非行(刑事犯)とは考えられない法的秩序違反行為であつて、これに刑法と同一の刑名の制裁たる刑事罰を科して刑事事件として取り扱うまでの必要のないような私法上、訴訟法上、行政法上の秩序を破る行為に対しては、右秩序を維持、確保するため、刑事罰に比し軽度の制裁たる過料を科する制度を認めることは、立法政策上その必要性が考えられないわけではない。ただ、過料の制度については、従来から遺憾ながら実務的にも法律学的にも立法政策的にも、必ずしも未だ充分の考察がなされていないように考えられる。蓋し、過料の制度は明治憲法時代より古く存在し、非訟事件として扱われ、そして当時にあつては、司法権の範囲は民事、刑事に限られ、且つ過料は刑罰とは考えられないから、過料の制度は民事法学、行政法学の分野の問題たるに止まつたが、今日にあつては、現行憲法の司法権の範囲はひろく民事、刑事、行政事に及ぶこととなり、過料に関する実体法上、手続法上の問題は、ただ民事法学、行政法学の分野の問題たるに止まらず、憲法学の分野の重要な問題となつて来ているにかかわらず、問題が特殊であることと、右各法学の交錯圏内の事柄であることと相まち、戦後新憲法の諸原則に即応してなされた各種法制の改廃の際に一種の盲点となつて、特に憲法学の見地からの堀り下げた探究に缺けるところがあつたように思われるからである。

四 過料に関する手続と非訟事件手続法の規定について。

右に述べたとおり、過料に関する現行の手続には、原則として非訟事件手続法二〇六条以下の規定が適用され、これを科する手続も、その決定に対する不服申立の手続も一切形式的には全体として非訟事件として扱われている。

そもそも非訟事件の観念は、明治二三年法律第九五号旧非訟事件手続法が公布せられて以来成文法上の根拠を得たが、同法は旧民法、旧商法と共に施行が延期され、明治三一年法律第一四号により、注文が全面的に改正、公布され、現行民法、現行商法の施行の日(民法は明治三一年七月一六日、商法は同三二年六月一六日)から施行されることとなつた。これが現行非訟事件手続法である。そして、ここに非訟事件とは、既に述べたように本来の正確な意味においては、裁判所で扱う形式的な広義の裁判の中で、民事上の訴訟事件即ち当事者間に争いとなつている既存の実体法上の権利、義務の存否、態様を確定することを目的とするものではない事件であつて、国が民事法上の生活関係を、後見的見地から助成しまたは監督するため、新たに当事者間に合理的な民事的法律関係を形成するような事件をいい、実質的には司法ではなく、行政であると考えられて来ていたものと思う。

ところで、過料については、旧民法人事編七四条、旧商法二五六条等には過料を科すべき場合の規定は存したが、旧非訟事件手続法には過料に関する規定はなく、過料に関する手続規定は、右明治三一年法律第一四号の現行非訟事件手続法によつて規定せられることとなり、しかもそれは同法の附則たる二〇六条以下に置かれることになつた。その後、各種の行政法規に多く秩序罰たる過料が採用されるに伴ない、それら行政法規も過料については非訟事件手続法二〇六条以下の規定を準用するようになつた(例えば、公益質屋法一八条二項)が、昭和一四年法律第七九号により、非訟事件手続法二〇六条が改正され、過料については、これを定めた実体法規の中に特別の定めのない限りは、ひろく同条以下の規定が適用されることとなつた。即ち、現行実定法の下においては、過料の制度は、過料の決定に対する不服申立の手続を含めて、すべてが全体として非訟事件として扱われているのである。しかし、問題は実にここにあるのであつて、過料の裁判は果たして全体として不可分の一体をなす一連の非訟事件として理解し得るものか、それともその中には法律上の争訟、即ち純然たる訴訟事件と見るべき部分が存在し、それは、最終的にはその他の部分とは切りはなして扱わねばならぬのではないかということは、現行憲法の司法権に関する規定の解釈上重要な事柄であり、まさにこの点が本件の核心というべく、そして、過料の決定に対する不服申立の手続を非訟事件として最終的に処理してしまうことが違憲である旨のわたくしの意見は、既に述べたとおり(一(二) (三)参照)である。

以上一ないし四に述べたとおり、要するにわたくしは、本件過料の決定に対する不服申立に対する救済方法として、非訟事件手続法の即時抗告(その決定に対しては特別抗告)の方法しか認められないということは、純然たる訴訟事件につき、憲法三二条、八二条の適用を排除することになり、憲法のこれらの法条に違反するものと思う(即時抗告が認められている以上、更にその決定に対し直接に、または別訴によつて、行政訴訟を提起することは、行政事件訴訟法の解釈上認められず、現行法規の下においては、非訟事件手続法の抗告に関する手続の終結をもつて、事件は最終的に確定し、不可抗争の状態となると解するほかはないであろう。)。

しからば、このような違憲を包含する現行非訟事件手続法の過料制度全体が違憲であり、同法二〇六条以下の規定およびこれに基づく過料の裁判は、すべて違憲、無効であり、論旨は理由があり、原決定はこれを取り消し、抗告人に対してなされた本件当初の決定も、その無効を宣言する意味においてこれを取り消すべきものである。

最後に一言したい。本件に包含された憲法上の論点につき疑いを有する者にとつては、多数意見は未だ必ずしも充分の説得力を持つものとはいえないと思う。わたくしは、本問題について、学者、実務家、立法機関等の今後における充分な研究を切に期待すると共に、多数意見のように本件が違憲ではないとしても、憲法三二条、八二条の精神からいつて、過料の決定に対する不服申立については、当事者がこれを希望する場合には、必ず公開の法廷における対審の途を開くようにすることが極めて妥当であり、そのように速やかに法律が改正され、いやしくも違憲の疑いを有する者に対して、その疑問を断つよう措置されることが急務であると考える。

(裁判長裁判官 横田喜三郎 裁判官 入江俊郎 裁判官 奥野健一 裁判官 五鬼上堅磐 裁判官 草鹿浅之介 裁判官 長部謹吾 裁判官 城戸芳彦 裁判官 石田和外 裁判官 柏原語六 裁判官 田中二郎 裁判官 松田二郎 裁判官 岩田 誠 裁判官 下村三郎)

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